服部浩之

体積の裏側  ACAC / 国際芸術センター青森
アーティスト・イン・レジデンスプログラム 2009 Autumn HOME
2009.11.14 – 12.13

不在の彼方へ — 現象にかたちを与える彫刻的所作

 大西康明は、そこにあることに人がほとんど気付かないようなものや目に見えないものを、根源的で非常にシンプルな方法で彫刻的な作品として定着する。その手法はとても鮮やかで、目から鱗が落ちるようにはっとさせられることも多々ある。大西はこれまで彫刻、写真、ドローイング、インスタレーションと様々な表現手段を用いて作品を制作しているが、ものの存在の裏側を捉える視点や、目には見えないはずの現象にかたちを与える思考が一貫してどの作品にも伺える。
 例えば、写真作品≪mountainroom≫(2006年)(fig.1)では蛍光塗料で被覆された一本のロープを真っ暗な食卓の空間に並べては撮影するという行為を繰り返し多重露光で撮影して1枚の印画紙に定着し、≪two sights≫(2002年)(fig.2)では真っ暗な室内にダンボールや空き缶などを積み上げレーザーポインタで無数になぞっていき長時間露光によりその状況を1枚の写真に落とし込む。また≪see darkness≫(2004年)(fig.3-1, 3-2)という展示空間に積み上げたダンボール箱に蓄光力のあるドットシールを規則正しく貼付けて暗闇で一瞬だけ光を照射し、光を蓄えたシールが鈍く輝き、その輪郭を浮かび上がらせあたかも林立する真夜中のビルディング群のような風景を生み出すインスタレーションなど、どれもまったく違ったスケールの新しい風景としてありふれたものを鮮やかな手法で転換して見せる。
 そして、第10回岡本太郎現代芸術賞展に出品し太郎賞を獲得した≪restriction sight TOM≫(2007年)(fig.4)では真っ暗な空間のなかに蓄光塗料でコーティングされた紐を、蚊帳のように設えられた巨大なビニルシートの内側に貼付け、扇風機のようなファンで内側から風を送り込みバルーンのように膨らませたりしぼませたりするなかで、ゆらゆらと膨張し立体化していくビニルシートとともに蓄光の紐がフワフワと内部で浮かび上がっていく。これは空気の流れを軽い紐と光により視覚化するもので、やはり目には見えない気流にかたちを与える作品である。
 これらは至極単純な現象やメカニズムに着目して、それを誰にでも理解できるシンプルな手法で見事に彫刻化する作品なのである。

 その他にも、暗闇の巨大な室内で中心にカメラを置き単管で組んだキューブのフレームをなぞるようにグラインダーを当てて火花を散らすという行為をキューブを回転させつつ何度も実施し、長時間露光で撮影する≪闇事≫(2003年)(fig.5)という作品も、制作中はただ火花が散っているだけにしか見えないのだが、一枚の写真に定着されるとそれが非常に立体的な空間の輪郭として描き出されてくる。
 さらにはビニルシートをバルーン状に張り合わせ、小さなモーターで動くファンを底面に仕込み風を送り込んだり止めたりすることにより空間内にいくつも空気を包んだ透明の固まりを浮遊させるインスタレーション(2008年〜)(fig.6)も、やはりシンプルな現象をじつにうまく目に見えるかたちにしているのだ。一見私たちは浮遊する空気の固まりとしての無数のバルーンに目を奪われるが、蛍光灯の光や室内の状況を映し出す半透明のバルーンからそれを取り巻く状況に気付き、その残余の空間に充満する空気や空間全体が視界に入ってくる。大西の「余白やネガのスペースをつくりたい」という言葉を引くと、彼がオブジェクトとしての強烈な存在の彫刻というものを求めているのではなく、むしろ配置したものを含めた空間自体をひとつのインスタレーション作品として成立させていることがよく分かる。
 ちなみに学生時代には大西もいわゆる彫刻作品を制作している。輪切りにした丸太を円形に並べて、その表面に四角い鉄板を何百枚も溶接により貼付けていき、最後にそれを燃やして丸太を消滅させる≪ガワ(環)≫(2001年)(fig.7)という作品は、鉄の素材感と存在感という意味で極めてスタンダードな彫刻であるが、そこにあったはずのものが消失すること、あるいは表面だけを取り出しそれ以外の不要なものを取り去り不在性を描出する手法は現在の作品群にも接続している。
 また、彫刻的な作品を制作していると本人がいうとおり、文字通り彼の仕事は現象を彫刻というかたちに定着していくものである。
 
 ところで、ここ数年大西は積極的に様々なアーティスト・イン・レジデンスに参加し、ヨーロッパ各国、アメリカ、韓国と気候や風土の異なる多くの国での生活を経験している。このアーティスト・イン・レジデンスを巡るという生活形態により、彼の作品のつくり方は少しずつ変化している。つまり、この数年はある与えられた場所で、その場の特性に合わせてそこで手に入る素材を中心に作品をつくっていくというスタイルを取るようになっている。彼が学んだのは彫刻であり、その活動や思考のベースにも確実に彫刻がある。立体芸術である彫刻は、通常重厚で存在感のあるものが想起されるが、彼の彫刻はむしろその逆で、浮遊感と透明性が非常に際立っている。ビニルシートや紐、簡易なモーターや塗料などなどの重厚さとはほど遠い軽妙などこででも入手可能な素材を用いて、どんな場所でも制作できるシンプルな手法を登用している。このことはよくも悪くも、展示が終了するともの自体が残ることはほとんどなく、次の場所でも類似した手法でまた新たにつくるという一回性の彫刻を生成するに帰結する。レジデンスでつくるというスタイルによるところもあるが、彼の作品には通常の彫刻がもつ重量感や保存性の高さはなく、むしろその不在性や一回性が前面に出てきている。彼は古典的な彫刻を勉強し、それに疑問を持ったこともあり、その意味で自分自身にとっての彫刻のあり方を探求しており、結果として不在性を形象化するに至ったのであろう。それにしてもレジデンスを巡り歩くという状況(経験)が彼の制作手法に影響を与えたことは間違いないであろう。

 さて、今回のACACでの新品≪体積の裏側≫(fig.8)に言及すると、この作品も素材は接着剤(ホットボンドのグルー)にビニルシート(正確にはポリエチレンシート)と天蚕糸(テグス)のみで、それこそ世界のどこででも手に入る素材で構成されている。大西は2009年初旬に韓国にレジデンスで約半年滞在したときにこのホットボンドとビニルシートによる作品の制作を本格的に開始する。天井付近に張り巡らされたテグスから水飴のような質感の黒い滴りが無数に連なって垂らされ、その下には椅子の表面をなぞるようなかたちで保存されたビニルシートが浮遊している。正確にはビニルシートは床面に接触しているのだが、感触としては柔らかく宙に浮いているように感じられるのだ。このビニルシートは明らかに椅子の輪郭を描いているのだが、そこに椅子はない。椅子は不在なのだが、そこには確実にその存在が垣間見える。制作法も種を明かすと非常にシンプルで、まず所与の空間に椅子を配置する。そしてその上にそれぞれビニルシートをかぶせる。最後に天井に張り巡らせたテグスに沿ってホットボンドを発射する。するとボンドは重力に従って、直下に途切れることなく糸を引いて落ちていく。それを等間隔で気の遠くなるほど繰り返すと、天井から何千本もの不定形の糸が垂れてビニルシートにつながることになる。1本1本は非常に繊細だが、全体でそのシートを強力に定着し支える。ビニルシートをめくって椅子を取り除いても、その形状は繊細な何千本ものグルーの糸によりしっかりと保存されるのである。しっかりと形状は保たれるているのに、人が近寄るとその微風を受けてビニルシートは軽く揺らいだりめくれたりする。この感覚が非常に心地よいし、それが彼の作品が持つ独特の透明性と不在性を際立たせる。
 ≪体積の裏側≫も同じような手法でつくられている。ただ今回はおそらくこれまでに彼が経験したことがないほど巨大で癖のある空間が与えられたはずだ。約6メートルの天井高で、短辺が10メートルで長辺は60メートルにも及ぶ直方体をねじ曲げたような扇形の空間のちょうど半分をたった一人で占有するのだ。空間というよりヴォイド(空虚)といったほうがよさそうな存在感のある場所。そんなヴォイドに彼は見事に新しい風景を生成した。
 彼は与えられた空間を読み込み、なだらかな山の稜線をつくりだしたのだ。ダンボール箱を山のように積み上げ、その上をビニルシートで覆い、天井のフレームにテグスを一定間隔で張り、そこからグルーを垂らして山の輪郭を定着していく。大西の地道な作業のもと日々着実に稜線は延長されていき、ダンボール箱は積み上げられては取り払われ、山の裏側が見えてくる。今回の作品は文字通り中空に浮遊しており、そのため通常では絶対に目にすることのない山の稜線の裏側に入り込み、真下からその輪郭線を知覚することが出来るのだ。

 マルセル・デュシャンがアンフラマンス(極薄)という言葉を生み出したが、まったく違った意味で大西のこの作品にはアンフラマンスという言葉が妙にしっくりくる。驚くことに総体積にして360㎥にも達するこの巨大な彫刻は、重量はわずか5kg程度なのだ。巨大にして軽快に宙に浮かぶという相対する両義性を獲得している。作品のそばを横切るとき、あるいは目の前で声を発するとき、この彫刻は静かに揺らぐ。

 

 作品を形成する素材それぞれに着目してみよう。当たり前のことだが接着剤の役割とは、字義のとおりものとものとを接着し固定することで、通常は目に見えることはないし、ましてや作品それ自体の表面に出てくることはまずない。しかしながらこの作品では、確かに接着剤(この場合はホットボンドのグルー)はテグスとビニルシートを接着してはいるが、表面に溢れ出て、むしろ存在(物質)と存在(物質)をつなぐ、あるいはある距離を視覚化する媒介者として、さらに作品の物理的形態の主要な構成要素として表に出てきている。通常は裏方として機能するものが、作品を成立させる主役として表出する。この転倒具合も大西ならではの、裏側への視線や、ものの価値や存在を逆手に取り異なった側面から捉え直す姿勢の現れであり、実在するものの裏側を造形することに接続されていく。
 この作品は何重かの意味で目に見えないものにかたちを与えている。まず接着剤を上から垂らしその表面のかたちを導きだすことにより重力を描き出し、ビニルシートは作品完成後こそ完全に不在となったが、確実にその下に積み上げられていたダンボールが残した山の稜線を定着し、さらにその静かな揺れは空気の存在にも輪郭を与える。つまり彼の仕事はそこに発生する様々な現象にかたちを与えるという、まさに彫刻的所作なのである。
 ちなみに地元の人はこの作品を見ると口々に、雪が溶け出して土砂と混じりあった春先の八甲田山の状況を思い浮かべるという。確かに乳白のビニルシートに黒いグルーがしたたり浸食していく様子はそういうふうにも見えなくもない。しかし僕にはこのような反応が、期せずしてこの作品が何らかの変化する状況や現象をかたちとして定着していくものだということをより確信させてくれた。大西は2010年もノルウェイからスタートし各地のレジデンスを巡ることが決まっているようだが、それぞれの場所でその不在の彫刻がどのような現象を捉えていくのか楽しみである。

国際芸術センター青森 学芸員 服部浩之